気持ちの上で、住む街が狭くなった様に感じる – 行動範囲を制限されたという空気感が漂う街 –

 本当に久しぶりに自分の気持ちを文章という形にしている。未来の自分へ残す「今現在の自分の記録(ログ)」として、また少しずつ形にして行きたいと考えた次第だ。2020年初めから始まったコロナ禍が世界を変えてしまった。あらゆる意味で。その変革は、一般生活、働き方、お金の使い方、遊び方、人付き合い等、およそ考えられる、ありとあらゆる物事を変えてしまった。あまりに多くのことを短期間の内に変えさせた、そのインパクトはあまりに大きい。もう少し期間が経ったならば、それ以前の状態を忘れてしまう程ではなかろうかと感じる。時間的には「2020年の春頃から約一年と少し」しか経過していないのだが。私の近況は相変わらず「主夫」である。立場的には何も変わらないが、自身の気持ちの上では大きな変化があった(それは現在進行系で続いている)端的に表現すると「住んでいる街が狭くなってしまった様に感じる」のだ。当然、面積等の観点ではなく「あくまで気持ちの上(中)での話」である。予め申し上げておくと、私は近所を楽しめる人間である。例えば散歩中に季節の草花を眺めては幸せを感じるし、風の向きやその中に含まれる匂いが変われば季節の変化を感じ、その行為・気付きに気持ちの安らぎを憶える。空の高さや雲の形・棚引く様、身近な事象すべてに意味があり、その変化を少しでも感じて自分なりに楽しめば「自分なりに街を(徒歩圏内でも十分に)楽しむことが出来る」と考えている。ゆえに私は、「週末は必ず自分の住む街を出て、例えばSNS映えする流行の場所へ行きたい」「ショッピングセンターで(無駄に)お金を使いたい」「(いわゆる)週末を満喫したい」等とは基本思わない。無論、そのスタンスを否定する気も毛頭ない。新しい場所へ足を運ぶことは私達に色々な意味で刺激をくれるであろうし、お金をつかうことは「経済への貢献」を意味する、そして休みを満喫するのは当然の欲求であり、責任感を強く持ち、それぞれの立ち位置で頑張っている方々からすれば当然の権利でもある。主夫の私がとやかくいう方がおかしい。ただ「休みを休みらしく過ごさないと気が済まない」という考え方は現在の私にはない(何度も記すが、各々の考え方を否定する気はない。どの様に過ごそうとも各人の自由だ)しかしながら、時たま「休みは出掛けてなんぼ」みたいなタイプの方から、一方的にどの様に休みを過ごしたかを聞かされると「何もそこまでしなくても」と勝手に心の中で思ってしまったりはする、こちらから聞いていないので尚更かも知れないが。この様な内容の話は、平時であれば何の問題もない他愛もないやり取りであるが、コロナ禍でそのやり取りの様相が芳しくない方向へ変わってしまった様に感じる。あくまで私個人の意見であるが、この手の方々がコロナ禍における「移動制限(自粛)」により近所に溢れてしまった結果、生活のパターンや質を加速度的に息苦しいものにしてしまった様に思えてならない。無論、皆さん近隣に実際に住んでいる方々なので何の問題もないのであるが、問題は「その温度感(居たくて居る訳じゃない感がすごい、と表現すれば良いか)」である。私に関して言えば、もともと自分の住む範囲で穏やかな時間を過ごすことに喜びを感じ、その中で小さな楽しみを見付けることを心底楽しんでいる(た)が、出掛けたがりの方々は表情からして憮然としたもので「出掛けられないので仕方なく近所にいる顔(不満顔)」なのである。はっきり表現してしまうと「好きでもないのに、仕方なく公園や散歩へ出掛けるタイプの方々」は「元来その行動を好んで行っている側(例えば私)」からすれば「仕様が無く感」をとんでもないレベルで発しており、その鬱屈とした雰囲気を周囲へ伝播させている様に感じられてしまうのだ。お前だけの街でないであろう、との意見もあると思う。当然だ。しかし、平穏無事に過ごせていた雰囲気の街(コロナ禍前)に突然「この街に留まらなければならないのが不満」との顔をした人々が溢れたらどうであろう。おちおち季節の草花を楽しみことも難しくなる。昨年の私の話をすれば、普通に散歩に出掛けるのだけでも億劫になってしまった時期があった。いつもなら昼間の街に居ない様な人達が不満顔(恨みつらみすら感じさせるマイナス表情)でウロウロしているのだ。そう言った人達の一部は自分自身の不満を誰か・何かを叩くことで憂さを晴らそうとする。行き過ぎた形での「自粛警察」等は典型的な例だと思う。思うに、コロナ禍の厄災の一つに「人々の行き来が大幅に制限された結果、人々の不満を非常に接近したレベル・距離に留めてしまった点が上げられると思う。結果として、非常に息の詰まる雰囲気を各々が住む地域に沈殿させてしまい、精神的な健康被害として人々の思考回路や行動様式を悪い方向に変えてしまった様に思えてならない。街自体の雰囲気の正常な入替(人々の動きも雰囲気を循環させる役割を果たすはず)が難しくなり、閉塞感が充満、その状態が常態化してしまった。私個人は、その悪い沈殿物の様な雰囲気の影響を受け続けた結果、「住んでいる街が狭くなった様に思えてならない」との心境に陥ってしまった。

■在宅ワークにおける可能性とは – 仕事に臨む主体性が鍵か –

とは言え、困難な状況下においても、適切に物事に対応・適応して少しずつでも先に進まなければならない。以下、仕事におけるコロナ禍の影響を「人々の移動とその制限の観点」から考えてみたいと思う。「日々の生活」とのアプローチでは、また後日「モチベーション維持」の切り口で記してみたい。

コロナ禍は、私達の日常生活へ多くの変革をもたらした。例えば「通勤」、会社へ赴く必要がほぼ無くなった、出社回数として半減した、会議・ミーティングは全てウェブにて行う等との変革はもはや当り前レベルで落ち着いた感がある。

(余談であるが、同じ会社でも出社する必要性が薄い部門・方々と出社しなければならない部門・方々との間で公平性が保たれていないとの話も頻繁に聞く。誰も想定していなかった事態における対応は間違いなく難しいと前置きをした上で、個人的には「もっとも公平な尺度は金銭による解決」であり、出社しなければならない方々へは、例えば「出社手当」なる名目で支払いを行い、出社回数に対する公平性を担保するのが良いのではと考える。これはこれで「公平性に欠ける」と批判されそうであるが、出社している方々は「通勤する行為」に対して「労力や時間」を掛けている。会社側からは通勤に関しては「通勤手当(交通費)」として金銭が支給されるが、この労力・時間の観点は基本的に入っていない。皆が通勤することが当り前な状態では問題にならなかった点である。しかし今現在この点における公平性が崩れたとすれば、在宅勤務が多い方々と出社しなければならない・あるいはその回数が圧倒的に多い方々での間においては、「通勤に対する時間・労力」の観点で金銭化しなければ公平性に欠けるのではと考える次第だ。勿論「有給増」等の金銭以外の手当て付与の方法も有効であるが、公平性との観点からは金銭での評価・還元はもっとも効果的なのではなかろうかと個人的には考える)

会社に出掛けなくてもいい、そうなると人はどうなるか。これも個人的な推察であるが「出社をしなくて良くなった多くの方々」はかなり喜んだと思う。何せ、通勤電車に乗る必要もなくなり、朝の車の渋滞等からも解放されるのだ。会社に行かなければ、苦手な上司や態度のキツイ同僚、口の利き方を知らない後輩(私も生意気であったと、書きながら反省)と面と向かって話す機会も減り、対人関係等の悩みや困りごとも(おそらくは)一定期間は少なくなる。仕事の総量との観点からも、在宅ワークで以前より忙しくなったという方々は少ないのではないかと思う、むしろ時間に余裕が出来たのではなかろうか。(誤解を恐れずに記せば、一部の人はかなりヒマになったとも表現出来る。勿論、忙しい人はどの様な形態で働いても忙しいが)

さて、なかなか魅力的な在宅ワークとの響き。自身に置き換えて(主夫なので仮定の話であるが)、もし私が現役の会社員であれば在宅ワークを喜ぶだろうか。一定期間は間違いなく嬉しいはず。が、おそらく私なら長期間は出来ない。理由は、在宅ワークには「可能性という伸びしろをあまり感じない」からだ。以下では、在宅ワークを「可能性を感じるか」との切り口で考えてみたい。思い返せば、会社に通わなくてよいスタイルは会社員(以前の私も含めて)からすれば、いつの時代においても、一種の憧れの働き方であった。「ノマドワーカー」「フリーランス」、これらのキーワードで数多くの記事や書籍が発表・発売されている(た)ことも考えると、決して注目度が低いスタイルではないはずだ。そして、完全にフリーランスともならず会社員を続けながら出来るアプローチとして「二拠点生活」「サテライト・オフィス」等の活用・導入を巷で声高に持て囃された時期も記憶に新しい。どのアプローチも平凡な通勤スタイルから脱却し、次のレベル(仕事も生活も楽しむ、より良いバランス感覚を目指す、環境を変えて新しい生活スタイルを構築する等)に進む積極性を感じるこが出来る。言い換えれば、これらは「可能性をより感じる(より高まる)アプローチ」なのである。では、在宅ワークはどうであろうか。私なりの結論を先に申し上げると、「コロナ禍により、仕方なく政府・企業側が始めた(提示した)働き方」である。そこに「何事かを始めるに際しての、個人の積極性」はほぼ感じられない。例外を言えば、何でも頑張れる方々・状況に合わせて物事を上手に最適化出来る方々は、およそ多くの変革を乗り越える(これは当人の努力なしには成し得ない、個人のたゆまぬ努力である)こういった方々は在宅ワークの可能性を最大限に引き出せると思う(何事においても当事者意識を持ち、物事に対して真摯に向き合える方々が生み出す可能性・相乗効果は無限大だ)

他方で、会社の看板にぶら下がる癖が付いている方々からすれば、在宅ワークは「さぼり癖を発揮出来るベストな働き方」になってしまう(既になっている)のではなかろうか。大して仕事もしていない人(やる気が無いと表現した方が妥当か)へ対してはそもそも連絡や仕事の依頼も少ない。とすれば、出来るだけ自宅でダラダラして連絡の返信も出来るだけ遅くし、そしてお給料だけを貰い続けるとの構図が本当に安易に出来上がる。大して仕事もせず、お金は継続的に入って来るとの状況を天国に感じるかも知れないが、おそらくこの状況は長くは続かないであろう。企業側からすれば、いつまでも仕事をしない人達へ給料を払い続けたくない、そしてその余裕もない。これは偽らざる企業側の本音だと思う。そもそも人を雇うこと自体に大変なコストが掛かっている。残念なことにコロナはウィルスである為、変異を繰り返しその存在は半永久的に存在し続ける。とすれば、会社側とて終わりの見えないウィルス対策にと仕様が無く用意した楽な働き方をいつまでも「仕方ないよね」と認め続けることは難しいであろう。早い話が「(在宅ワークで)結果を出せない人はいらない」との方向が加速するのではなかろうか。実際、会社に〇〇さんが居なくても特段何も困らなかったのだから、との論法である。コロナ禍以前の様に「取りあえず会社に行けば、仕事しています・忙しいですとの言い分が成立」する状況では最早ないのである。在宅ワークは通勤時間の短縮という大きな時間削減効果を生んでいる。ゆえに、「時間がある、のに仕事をしない・出来ない」はまずい事態なのだ。導入され普及した経緯はどうであれ、「在宅ワークはリストラをより加速させる施策(結果的にでも)」であると私は本気で思っている。在宅ワークという(頑張ることを嫌う一部の人達にとっての)甘美な響きは、「物事の猶予期間を食い潰して得られる一時的な利益(楽)という側面を併せ持つ」ことを忘れてはならない。さらに、ダメ押しできついことを記すと「直接会わない=知らず知らずの内に情の低下を招いている(お互いに)」この点も含んでおいた方が良いように思われる。以前よりも、泣き落とし的な話が通用する余地がないことも肝に銘じておこう。

■可能性を広げようとする姿勢 – 移動しない(が少ない)=停滞を招きやすいとの点を意識 –

 在宅ワークの悪い点ばかりクローズアップしてしまった気がするが、良い点は何であろう。対人関係等の負担の軽減も大きいと思うが、以下では通勤しないことで得られる「時間」に着目したい。ご自身の通勤時間を考えて頂きたい、どの位であろう。そして、もし在宅ワークをされている方ならば「一日で往復どの位の時間を節約出来ているのか」「一週間」「一ヶ月」「一年」ではと、単純計算してみてほしい。一年位まで期間を広げて考えてみると、かなりまとまった時間になると思う。この時間を活用すれば色々なことが出来るはずだ。では、在宅ワークが私達の身近な言葉になって一年近く、その空いた時間で何をしたか・達成したかを考えてみてほしい。中には意欲的に物事に取り組み、自宅でする仕事もプライベートも絶好調との方々もいるかも知れない、努力を怠らず手に入れた成果・生活、素晴らしいことである。しかしながら、「時間は出来たけど、思った程には何もしていない」と言う方々も多いのではなかろうか。むしろ「コロナ禍以前と比べて、能率やモチベーションの熱量は下がったかも知れない」との方々も多いのではなかろうか、とも感じる。ここからは私の感覚的な話であり、エビデンスも何もない。ただの一個人の意見として聞いて頂ければ有難い。思うに人間は「ある程度の枠組み(生活様式・物事の枠組み・考え方や進め方・帰属する組織・地域・従うべき規範等)」があった方が結果的に物事の能率や気持ちの維持がし易い生き物である様に思える。その枠組みが強すぎても無論良くないが、突然にそれまで当り前であった枠組みが大きく変更されると人間は戸惑うであろう。しかも「楽な方向への転換」であったりすると、人の能動さやモチベーションにおいては、中長期的な視野で考えると悪い方向へ影響が出てしまう様に思えてならない。厄介なのは、楽への転換は基本的に歓迎すべきものであるので(当初は)誰もが喜ぶのだが、一定期間が過ぎると、今度はその状態に慣れてしまい、その状態を続けるとまずい事態に陥ることが予見出来ても(物事を見通す力が弱まり、出来ないことも多いが)少しずつにでも改善しようと動か(け)ない点にある。「ゆでガエル」とも言い表せそうか。時間を手に入れて、停滞する。言葉にすると意味が分からないかも知れないが、おそらく同様のことを日常において肌身で感じる方も多いと思う。移動しないことが悪い訳でも何でもないのだが(むしろ時間を節約出来ることは歓迎すべきこと)、それは同時に「あなたの能動性(その先にある可能性)」を同時に削いでいる恐れがあることを念頭に置かなければならない。詰まる所、意識は常に移動しておいた方が良いのかも知れない。身体においても軽度のジョギングや散歩等、移動を伴うものを適度に出来ればベストだと思う。例え話であるが、張り合いのある毎日を送る人が休日をゆっくりするのは必要だし、健康の為にもそうあってほしい。しかしながら、他方で「忙しい・張り合いのあるとの感覚」をながらく忘れてしまった人にとっての「休日」は、本当に忙しい人が休日に感じる「充足度・満足度」に遠く及ばないのは比較するまでもないであろう。

私が念頭に置くべきと考える点をまとめると「在宅ワークは人々の移動を結果的に小さなもの(実際の距離の他、人とのやりとりにおける心の動き等も含まれる)にしてしまい、一見すると楽ではあるが(実際にそうかも知れないが)それは自分自身の能動さや今後得られる可能性と引き換えにしているリスクを併せ持つ」との点である。能動さと引き換えに、楽と言う名の「停滞」を招いている恐れがある。私達は常に「停滞しているかも知れない」との意識を持ち、身体的にも気持ちの上においても「在宅ワークがより自分の可能性を広げる働き方」であることを自身の行為を通して立証して行く(し続ける)必要性がある。時代は常に待ったなしで様々な方向へ進んでいる、一時期は良い意味で流行ったものが、今後も「良い意味」での方向性を維持してくれる(される)とは考えにくい。在宅ワークという、ひと昔前であれば望んでも手に入らない働き方を今は「そうしなければならない」との側面から求められている現状を鑑みても、物事の状況は数年で大きく変わることが分かる。時にそれは思いもよらない方向へ動くこともある。人によって捉え方は様々であろうが、自分自身の可能性・伸びしろの余地を小さくしないよう、むしろよりその部分を伸ばして行けるように「在宅ワークという現代の新しい働き方」に向き合い・考え・身に落とし込んで行く必要があると考える次第だ。

サラリーマン クリエイター考 – 職人としての道 –

まず、はじめにお断りしておきたいのだが
私はサラリーマンを馬鹿にしていない。
(私はそうでないのだが、「サラリーマン」との響きに抵抗がある方も多い)
理由は、自身がサラリーマンであったことに加え
「組織に属するからこそ、安心して自身の仕事に取り組める」との考え方を強く頂いている為だ。

無論、組織に属するからこその面倒や煩わしさもある。
そうした弊害も勿論あるが、だからといって
「組織に属するからこそ享受出来るメリットをすべて否定」する程ではないと考えている。
個別具体的な懸案事項は、案件毎に解決法を模索すればよく
その様な懸案事項がすぐさま
「集団に属すること(=サラリーマンであること)を否定するものではない」と考えている。

確かに、度重なる心労や周囲の人で無しの態度に嫌気がさすこともある。
あまりにもその様な状態が恒常化しており、改善の兆しも見えないのであれば
もし自身に高い能力や確かな手腕があるでのあれば「独立」するのも良いと思う。

(私には、そのような能力がないので、そんな人を素直に格好良いと思ってしまう。
また、独立まで行かなくとも「転職(=属する集団を変更)」してみるのも良いであろう)

が、皆が皆、独立を目指している訳でもない。
今回は「サラリーマンであることのメリット」を踏まえつつ
「クリエイターといわれる職種」の方々の話をしてみたい。

なぜ今回「クリエイター」という職種に着眼して記すのかというと
私が個人的に多数の方々にお世話になってきた中で
「サラリーマン」と言う単語を
ご自身に「馴染まない」と捉えている方々が
一番多かったように思われるからだ。
(イメージ的には「私はサラリーマンではなく、クリエイターだ!!(ムッとした感じで)」と言葉を返してくる様な感じか)

サラリーマンとの言葉についての私見だが
私は「サラリーマン」との言葉自体を忌避する理由は
あまり無いのでは、と考えている。

なぜなら、組織に属する人間にとっては、その立ち位置を表す「単なる事実」に過ぎないからだ。
(一種の「記号」のようなものと表現すればよいか)
この単語自体に「仕事が出来ない」等と言ったニュアンスは含まれてない筈だ。
(もし、そう思うなら言われた側が勝手に思っているのだろう)
単なる事実を言われただけで、自分勝手に深読みし、都度目くじら立てているようでは
正直、仕事にならないと思う。

人によって立ち位置は変わる、それぞれの人生があるのだから当然だ。
確かに、馬鹿にされたような流れでサラリーマンと言われれば腹も立つであろう。

だが、例えば顧客が「オーナー社長」であった場合は
ただ単に「立ち位置が違う(例えば、何かの案件について双方の意見を述べる場合等)」との意で
その単語を使ったりする。あまり深い意図はない場合が多い。
(この場合、侮蔑する意図はなく、単に働く形態の違い(= 物事を捉える方向・角度の違い)を表す記号として用いている)

現役時代の私は、オーナー企業の社長さんにお世話になることも多かった為、
上記のような流れの会話は頻繁にあったし、「事実」なので気にならなかった。

(余談だが、「事実」をきちんと「事実」として認識出来ない人は避けられる。
例えば、事実そのものが問題となった場合に、事実をきちんと捉えられない人は
感情的になってしまう傾向があり、正面から事実を捉えた改善策を練れず
事態の打開に向けた建設的な対応が取るのが難しくなる可能性が高いからだ)
また、サラリーマンにもすごい方々はたくさんいる。
例えば、「社長」と聞くと「あぁ、雇われ社長ね」なんて思う人は通常あまりいないと思うが
「社長」であっても「オーナー」でない限りは
「サラリーマン社長」である点を忘れてはいけない。
(一般的に「社長」と言われている方々は皆が皆、企業のオーナーという訳ではない)

そして、サラリーマン社長の中には「一流経営者」の方々が数多くいる。
誰もが知る有名企業から依頼を受けて、新代表に就任するような方々だ。

この様な一流経営者の方々は
「雇われるとの形式を取るからこそ、多くの企業にそのノウハウを伝えることが出来る」ことになる。
(崩れそうな状態で何とか持ち堪えている企業にとっては
少しでも多くの有用な改善を複数の経営者の方々から取り込みたい所だ)

また、この様な方々にとっての「雇われるとの形式」は、
多くの企業に活躍の場を求めることが出来る可能性を意味し、
そして企業側にとっては「雇う(一応、任期がある)」からこそ、
いずれ来るであろうトップ交代により
更なる多様性が生まれ、様々な手法を試し、企業内に落とし込むことが出来るともいえよう。

勿論、社長との立ち位置でなくとも
「一流ビジネスマン(= こちらもサラリーマンの一つの形態である)」は数多くいる。

後者の「一流経営者(ビジネスマンの方々)」の例は
一般的な人にはあまり当てはまらないかも知れないが(当然私も)
サラリーマンを悪く捉えている言葉ではなく、むしろプラスのイメージが強いように思われる。
(勿論、サラリーマンとの言葉で言い表せられる方々ではないのだろうが)
単に立ち位置を表す記号のような言葉をそこまで嫌がる理由もないのではなかろうか。

思うに、「雇われる(= お給料を貰う = サラリーマン)」との形式の中で
「しっかりとした立ち位置で仕事をし、きちんと仕事を形にして行く」ことを
自身の根幹に据えて仕事に臨んでいれば
そんなにサラリーマンとの単語を聞いた位で
どうこう思わなくてもよいだろうと個人的には感じてしまうのだ。
(事実について、感情的になる方が無駄だし、得られるモノが少なくなると考えている)

さて、前置きが長くなってしまった。
「サラリーマン クリエイター考」について話を先に進めよう。

まず、組織に属していても活躍しまくっており
手腕があり、個人として目立つクリエイターの方はこの話には該当しないので除く。
なぜなら、いずれ高い確率で独立、あるいは組織内でプレゼンスを発揮し
将来的には組織を引っ張って行く立場になるからである。

(この人は・・・苦笑、みたいな人に会ったことがあるだろうか。
業界特性なのかも知れないが、クリエイターという職種には
自分勝手で破天荒な人も多い。そのような長所とも短所ともいえる点を
仕事(実績+人柄)でカバー出来てしまう人はすごい)

上記のような方を除き、最初に【対象①】となるのは
■クリエイターとしての自意識が周囲に比べて何故か(無駄に)高く
■自身がそうであるのも関わらず、サラリーマンであることを嫌がり
■組織内において、ある分野のプロとして周囲に認知され、個人名で仕事が入る訳でもなく
加えて
■おそらくは独立する予定もない(出来ない)方々、となる。

俗っぽい表現をすると、
「口だけで安定した実績(反復継続していることが大切)もなければ、
“あの人に頼もう”という声(周囲やクライアントからの信頼)を受ける訳でもなく
努力もしないが、やたらクリエイターとしての立ち位置にこだわっている人」となるだろうか。
「自意識過剰系 サラリーマン クリエイター」とでも記しておこう。

(失礼な表現かも知れないが、感情抜きに単なる条件の列挙としてみて頂きたい。
こういった項目をオブラートに包んだ表現にしてしまうと
きちんと捉えるべき物事の輪郭が、途端にぼやけてしまう。

これは、仕事において十分に意識し、気を付けなければならない点でもある。
例えば、「相手に気を遣ったつもり」で
明確に問題点を指摘しなかったこと(やんわりとしか伝えなかった等)が
後の大問題につながり、「相手からは問題点を認識していたのに言わなかった」等となる。
確かに表現の仕方・伝え方は難しいが(受け手がどの様に捉えるかは分からないとしても)、
相手方に物事を明確に伝えることは非常に大切である。

更にいえば、相手がきちんと自分と同じ感度で理解していなければ
「伝えた」とはいえないであろう。
自分は言ったつもりだけれど、相手側が同じ温度で理解していなかった。
きちんとした温度感で伝えていないと相手側の印象(記憶)には残らない。
これが、日本人によくある何か問題が起こった際の「言った、言わない」に繋がる黄金パターンだ)

クリエイターとしての意識が過剰に高い(自意識過剰)とどうなるかというと
「めんどくさいヤツ」になってしまう。
少しのことでも「自分基準のクリエイター目線」が入ってしまう為、
チームで仕事をしていると「変なこだわりを持った人」は一人だけ
皆とは異なる目的地に向かって仕事を進めてしまったりする。

例えば、「ある商品の広告」を手掛けるとしよう。
通常であれば、クライアント側が求めるのは
「多くの消費者の購買意欲を掻き立てる広告」である。
(社会的意義を発信したい等の販売とは別の目的を持つ広告を除く)

この場面において変なこだわり満載のクリエイターは
「消費者の方々」という「最終的に見てくれる方々の視点(制作側ではない第三者視点)」を考慮せず
自分自身の「アーティスティック(??)な部分を発揮しよう」と発奮してしまうことが多い。
自分のこだわりが中心に据えられた世界観の為、
「何の為の仕事なのか」ということを念頭に置けないのだ。
多くの人に訴求力を要する何かを作りたければ、
「自分(我)が出てくる」のは避けなければならない。

そして、仕事の多くは「企業」から「企業」へ依頼されることも忘れてはならない。
もしクライアント側に「頼みたい誰か」がいれば、独立系・組織内の腕の立つ人、
いずれであっても「名指し」で仕事を頼まれるだろう。
そうではなく、普通に企業⇔企業で頼まれた仕事であれば
「変なこだわり満載の誰かさん」に頼んでいる訳ではないのである。

あげくの果てに会社から会社で仕事を頼んでいるのに
「サラリーマン否定気味でのクリエイター論」等を聞かされたならば
私なら違うチームに依頼し直してしまうかも知れない。
客観的な視点を持ち、スタートの段階である程度は関わる皆が
共通の視点、ほんやりとでも良いので向かうべき先の見通しを
共有出来ていなければ最終的なアウトプットがどこを向くか分からないからだ。
むしろ、「変なこだわりのお陰で変な方向を向いてしまう」と考えた方が自然だろう。

(極端な例だが、高級車のPR動画作成において、所帯じみた内容に仕上がったらどうか。
起こること自体が考えにくい例であるが、PR動画を作成した人が
その高級車の知識もなく、事前調査もせず、出来るはずの努力を怠り
さらには「高級車」について自分勝手に解釈していたりすると起こり得る。
そして、PR動画の本来の目的である高級車をさておいて
見る側(消費者側)からは分からない様な部分に「変なこだわり」を発揮させ
個人的な新たなアプローチに本人は満足している様な場合がある。
この場合、言うまでもなくクライアント側は辟易することになろう)
そういった自分試しのような形で仕事をしたければ
「会社に属せず、野に出て(独立して)自分でやったらいいのに」と思ってしまう。

会社は仕事をする上での「看板」を貸してくれる。
これを当り前に思ってはいけない。
同じ内容の仕事をしたとしても
「会社で仕事を受けたのか」「個人で仕事を受けたのか」では全く状況が異なってくる。

「自意識過剰系 サラリーマン クリエイター」においては
この部分を履き違えている傾向にある。

会社として受注したのに
あたかも「自分個人に指名があったかのように」捉えてしまうのだ。
しかも、この手の人は変なこだわり故なのか、
仕事の進捗や納期の管理がずさんであったり、
横方向の意思疎通(例えば、社内の営業サイドの人達との擦り合わせ)が疎かであったりする。

進捗や納期に関しては、
「クリエイターとはかくあるべし」と言いたいのが如く、進捗状況が明らかに遅れていたりするし
納期直前で「ほとんど何も出来ていない」なんてこともある。
(この手のタイプは時間を掛けても良いモノを生み出す可能性は低い)

横方向の繋がりも、とても大切で
クライアント側と数多くの折衝を重ねるのが営業サイドである場合、
営業サイドが打合せで得た「クライアントの直の温度感(皮膚感覚とでも表現出来ようか)」を
伝えようとしても、きちんと理解してくれなかったりする。
(ここにも自分勝手な解釈が入ってしまうのだろう。
クライアントのお願い事項よりも「自分感覚のこっちの方が良い」が勝ってしまうようだ)
あろうことか、営業は「クリエイティブではない」と言い切り
耳を貸さないこともある。

自分で仕事をやっている方々は、上記のように流暢なことはしていられない。
指名を受けたりすれば、それはこの人(達)ならばとの「期待をしてくれて」の発注となる。
都度が勝負となる為、一回一回の仕事の評価が
そのまま自分達の評価となる訳だ。

また、同じ案件をダラダラと無駄に長くも扱えない。
(きっちりとした長期に渡る計画的な案件を除く)
なぜなら、「お金を稼がなくてはならない」からだ。
ゆえに、大小様々な案件を常に同時進行で携わっていることが多い。

会社に属していれば、多少のサボリ位ではお給料に影響はないかもしれないが
自分達でやっている人達は状況が異なる。
言うまでもないが「案件毎に本気」だ。

対して、「自意識過剰系 サラリーマン クリエイター」は
自分の変なこだわり故の遅延を「クリエイティブな仕事には時間が必要」等の言葉で濁して
他の仕事も「忙しいから(周りには全くそう見えないのが笑えるが)」と断って
周囲の人に迷惑を掛けていたりする。

頑張っている方々と比較するまでもないが、クリエイターとしての気位は高くても
仕事する手は、自分で言う程、動いていないのが実情なのである。
(当然、それに伴う結果もついてこない)

当り前であるが、上記の様になってしまうと一緒に仕事をするのが面倒になってしまう。
するとどうのなるか。
社内外問わず「選ばれない人間」になってしまうのだ。
(無論、独立なんて出来ない)

仕事に臨む態度として、野心的に仕事に挑戦する(攻める)のは良いと思う。

しかしながら、クライアント側の依頼内容や予算・納期、
そもそもの目的は何か(販売数量UPか、イベント等の告知か、社会的意義の発信か等)をきちんと理解し落とし込まずに
「全部自分が好きなようにやる」みたいなスタンスで仕事に臨まれると非常に困る。
「その人の為の依頼ではない」からだ。
クライアントのお金で「自分勝手に仕事(クライアントが納得しなければ、本来は仕事とは言えないのだが)」をする人を
本当の意味でのクリエイターとはいえないであろう。
(好きにやっている様に見える方々も、押さえるべきポイントをきっちり押さえているはずだ。
だから実績とともに信頼を得られることが出来、継続的な仕事に繋がっていくのだろう)

相手方の依頼内容や望む結果をよく落とし込み
その依頼に込められた「言葉としては表すことの出来ない何か(期待)」をくみ取り
そういったモノを成果物へ上手に盛り込み、
依頼時点では「言語化するのが難しい期待」をも
「広告等の媒体に、クライアントも消費者も予期せぬ形で表す(新鮮な驚き・いい意味での裏切り)」ことが出来る方々を
本物のクリエイターというのだろう。
いろいろな捉え方があると思うが、私は上記のように感じている。

ずいぶんとキツいことを書いてしまったが、話を進めたい。

次は【対象②】として
■ある程度の年齢になり、おそらくは独立の予定や計画もなく、
また社内ベンチャー等の中心人物に抜擢されるようなタイプでない人が

「クリエイターとして仕事にどの様に携わって行けば良いのか」という話に移りたい。
(パッとしないが、真面目に仕事に臨んでおり、それなりに今後の自分の展望を考えている人が対象。
自意識過剰系 サラリーマン クリエイターは、どうしようもないので置いていく)

結論からいうと「職人さん」を目指してはどうであろうか。

余談だが、私は「職人さん」が大好きである。
自身の若い時分の話であるが、老齢の職人さんにずいぶん教えられた。
(助けれらたのではなく、「教えられた」のだ)

仕事でお世話になっていたのだが、
年配の職人さん達は、長年の努力と経験、技術に裏打ちされた仕事をされる。
その技術や世界観は、新参者が憧れても一足飛びに得られるものではなく
長い間、ずっと同じことをしてきたからこそ習得することが出来る大変なモノなのだ。

口数少なく、ずっと前かがみに佇むその後ろ姿には
言葉では表現出来ない「説得力」がある。
若い頃、その様な後ろ姿に「基本の大切さ」「研鑽を積むこと」
そして「自分の道を歩むこと」の大切さを学んだ。

クリエイターの方々に当てはめてみよう。
確かにクリエイターといわれる仕事をされている方々は
「カッコいい」「目立つ」「評判になる」「誰もが知る」等の指標が適用される仕事をしたいのも十分に分かる。

しかし、皆が皆、いつもこの様な仕事ばかりに携われる訳でもないし
すでに述べたように「収益を上げる」為にも
クリエイティブというよりは、「ほとんど作業」に近い仕事も多くこなさなければならないのが実情だと思う。
(どちらかと言えば、圧倒的に後者の仕事が多いであろう)

この「作業に近い仕事」をクリエイターの方々は嫌うのかも知れないが
私は、この部分にこそ「可能性」を感じる。

「本当はクリエイターなのにな」と思いながら、若干嫌々目で仕事に携わるよりも
「この分野の職人(エキスパート)になってやる!!」と思いながら成果物を作り上げるのでは
目に見えて、結果が異なってくる。
(作業を侮るなかれ。同じ作業をしていても、上記のような仕事に臨む態度の違いは驚くほどに結果に表れてしまう。
細部の美しさ、間違いの有無、納期や出来高など、比較すれば一目瞭然である。
同じ仕事を同時に「二社(者)」にお願いしたりすると分かり易く出てくる)

ある程度の年齢になれば、自分の今後も何となくは予想出来ると思う。
その際、「誰もが知る有名クリエイターになれなかった」なんて自分を卑下する必要はまったくない。
上位何%の人が該当するのだろう、そんな1%もいないような人達と自分を比べる必要はないのだ。
(むしろ、99%の人達の方が普通だ)

また、クリエイティブという分野においては、「若い感性」もとても重要であり不可欠な感覚である。
これを維持するのも大変だ、色々な分野に精通していて年を重ねれば自然と下がって行く部分でもある。

その代わり、きちんと仕事に長く臨んできた方であれば「クリエイターとしての技術」があるであろう。
「きちんと育て上げ、時に悩んだり、迷ったりしながら培ってきた、あなたの技術」は
若い人の感性だけでは、安易に乗り越えられるものではない筈だ。
また、いい時間を過ごしていれば「人間としての円熟味」も増す。
これも若い人が欲しくても手に入らない魅力の一つであろう。

その技術を最大限に活かすことも「カッコいい仕事」だと思うのだ。
ある分野の職人さん(エキスパート)になれば、独立しなくとも
あなたを頼って社内外の人が来るかもしれない。

そして、技術を磨き続ければ「外部パートナー(外注先さん)」としての道もあるかも知れない。
人生は何が起こるか分からない、介護や自身の健康面で会社での仕事が辛くなったり、
生まれ故郷の実家を継いだりするかも知れない。

それまでに「この分野はあの人!」と思って貰える位に
「作業を自分の専門分野」まで昇華出来れば
その様な「独立」も可能なのだ。

最後に、自分の話を少し。
私はずっと営業であった。
何かを作り出す腕もなければ、何かを作品として残すこともなかった。
ひたむきに仕事に臨んできたが、振り返って何も残らないのは
とても寂しいことである。

そんな私からすると、何かを作り出すことが出来る人達は
もうそれだけでカッコいいと思うのだ。
そして、組織を離れたとしても、培った技術はきちんとその腕に残る。
どこへ行っても、その技術があなたから離れることは無いのである。

長くやっていれば、不遇なこともあると思う。
が、きちんとやっていれば自分のやってきたこと(技術や周囲の方々からの信頼)が
あなたを苦しめることはないと思う。

サラリーマン クリエイターを極めて、ある分野の職人になる。
しつこいが、私は十分にカッコいいと思う。

応援しよう – ほんの少しでいい、周囲を想う心持ちが大切 –

あなたは周囲の人を「応援」することはあるだろうか。

いきなり問われると答えに窮してしまうかも知れないが
例えば、簡単な手助け等も「応援」に含まれると解釈すれば
応援が非日常的な行為であるとは言えないだろう、
手助け位であれば思い浮かぶ節もあるのではなかろうか。

自分が何てことない時も、応援されれば十分に嬉しいが
本当にどうしようない状況の際は尚更に有難い。

肉体的にも精神的にもつらい時。
あまりに大変で逃げ出したくなる時。
手を尽くしたものの事態が好転せず、どうして良いのか分からなくなった時。

人は周囲の人達からの「応援」で何とか切り抜けることが出来る。
仮に、物事をやりきるのは自分自身であったとしても
心ある応援の声が何の役に立たないという人は
あまりいないだろう。
(例えば、一流のアーティストや職人さんのお仕事は性質上、代替がきかない。
その方がやるからこそ価値がある仕事が多い。
この場合は周囲は代われない。故に周辺の行為を支える等が応援に該当する)

また、切り抜けることがすべてでもなく
時には、一旦引くことも大切な場合もある。
この時も、周囲の人達の応援が「建設的な意見」となり
その結果、物事はあるべき姿に収斂されて行く。
(例えば、本人はやりきりたい気持ちはあるが、
このままやらせてしまうと倒れてしまう可能性が高い場合など)

改めて説明するまでもなく
「応援」は人々が頑張る上で、何かを成し遂げる上で
とても重要な役割を担っている。

なぜこのような当り前のことを記すのかといえば

「人は応援されたがる生き物だが
有事の際に応援して貰える為には、自分も日頃から周囲の人を応援していることが大切」
と私は考えているからだ。

(自分が応援されたいが為に応援している訳ではない点に注意、
それでは単に打算的な人間だ)

意外と抜け落ちている視点なのだが
自分で助けてほしいと思うのと同じ位の熱量で
人のことを助けているかといえば、
そうでもないことの方が多いのである。

「人は大変な時には、助けてほしい」と心底そう思う。
当り前だ、私も今ならそう思う。

(現役当時は、最終的には自分でやるしかなかったので
あまり助けてほしいとは素直に思えなかった。
言葉は良くないが「周囲に何も期待していない」、
これはこれで寂しいことである)

だが、何てことなく(問題なく)過ごしている日常においては
そのような気持ちにはまず陥らない。
(その様な気持ちを忘れてしまっていると表現した方が適切か)

私が、あなたが何てことない時にも
周囲には「助けてほしい」状況の人が周囲にいるかも知れない。
仕事においては、身体も気持ちも
限界に達してしまうような動き方をしている人(そうせざるを得ないのだろう)もいるであろう。

自分が問題なく動けている時に、
この様な大変な状況下にある人達に気付けているかどうか。
そして、自分の出来る範囲で構わないので
ちょっとした手助けや声かけを行っているか。

自分自身の仕事や生活もあるので
人の大変さを親切心で無理に背負い込む必要はない。

(安易に引き受けるものではない、それは危険な行為だ。
仕事等においては、能力的にも、
キャパシティー的にも背負うのが不可能なものを
安易に引き受けることは「無責任」であるとも言える。
尚、仮に無理矢理に押し付けられた場合は
「無理(困難)である旨」をきちっと事前に相手側に表明した方がよい。
仮に予想通りにうまく回らなくとも、あなたは事前にその旨を伝えたのだ。
これは自己防衛の為にも「無理は無理」と伝えておこう)

そうではあるが、
最初から「自分は関係ないという態度(見て見ぬふり)」をして良いかといえばそうではなかろう。
例え、理想論だとしても
その様な態度は取ってはならないと思う。
(自分が手伝える状況になくとも、
話を聞く、大変だという同じ温度感を共有する等、
少しでも出来ることはある筈だ)

例えばこれが、職場で若い子が苦しんで悩んで
どうにもならない雰囲気で日々何とかくらいついていくのを横目に
中年男性がたいして仕事もせずに、
週末の遊びの話や、定時が過ぎてすぐに開催される飲み会の話をしている図であったらどうであろう。
(どこの職場にも頻繁に喫煙室で無駄話ばかりしている輩がいるであろう)
私は同じ男性として心底情けなく思う。

少しだけ自分の話をすれば
私は「自分には関係ないから」との台詞ばかりをいう輩の多い場所に長居し過ぎたせいか
最初からその様な人達に何も期待しなくなった。

彼らは、私がやっている仕事が
本来は彼らがやるべき内容ものであっても

「本来は私がやるべき仕事だから」
「代わるので教えてほしい」
「申し訳ない」等の言葉を発したことがない。

(内容的に当人に適さなかったり、取引先から私宛に指名を受けたりすると、
結局私がやるしかないという状況であった)

そんなこんなで長期間過ごしていたので
仮に、彼らが困ったところで
「普段から何もしていないのだから自分で解決しな」位にしか思わなかった。

自分がすべき事柄すら、人にやらせて何とも思わない人達を
快く手伝える人は少ないだろう。
少なくとも、私はそんな良く出来た人間ではなかった。

(だが、残念な事に彼らは普段から何もしていないからこそ
不意のアクシデントにも遭遇せず、
また問題に遭遇したところで
普段から何もしていないので解決できず
(問題解決能力は、きちんと場数を踏み、問題と本気で向き合わないと蓄積されない)
結局のところは解決に適した人物へ仕事が回ってきてしまうという循環であったのだが・・・)

応援される為には
「自分も相手を出来る範囲で応援している(実際に手伝えなくとも応援する心持ちでいる)」ことが大切だ。
ただし、誰かに優しくしても、その人から「有用な何か」が返ってくるとは限らない。

そうではあるが、お金や仕事と一緒で
人を気遣う、想う気持ちや人の為に使った時間や手間は
どこからか自然と自分の元へ戻ってくる。

この循環には「見て見ぬふり」という負の行動も同様に当てはまる。
その様な態度でいれば「何かの折に自分に返ってくる」可能性が高い。

スピリチュアルな話をしたい訳ではないが
自分自身が放った負のパワーは
おそらく最終的に自分の元へ戻ってきてしまうと思う。
(私も何人か、「本人が事の発端である負の連鎖に嵌った人達」を実際に見てきた。
気のせいかも知れないが、本人以外のご家族やご兄弟に影響が及んでしまうケースも多かった)

応援を仰々しく書いてしまったが
誰かを想いやる気持ちが少しでもあれば
自分が大変な時にも誰かが助けてくれる。

自分の周囲の人達位、大事にしよう。
シンプルにそんな気持ちが大切だと思う。