本当に久しぶりに自分の気持ちを文章という形にしている。未来の自分へ残す「今現在の自分の記録(ログ)」として、また少しずつ形にして行きたいと考えた次第だ。2020年初めから始まったコロナ禍が世界を変えてしまった。あらゆる意味で。その変革は、一般生活、働き方、お金の使い方、遊び方、人付き合い等、およそ考えられる、ありとあらゆる物事を変えてしまった。あまりに多くのことを短期間の内に変えさせた、そのインパクトはあまりに大きい。もう少し期間が経ったならば、それ以前の状態を忘れてしまう程ではなかろうかと感じる。時間的には「2020年の春頃から約一年と少し」しか経過していないのだが。私の近況は相変わらず「主夫」である。立場的には何も変わらないが、自身の気持ちの上では大きな変化があった(それは現在進行系で続いている)端的に表現すると「住んでいる街が狭くなってしまった様に感じる」のだ。当然、面積等の観点ではなく「あくまで気持ちの上(中)での話」である。予め申し上げておくと、私は近所を楽しめる人間である。例えば散歩中に季節の草花を眺めては幸せを感じるし、風の向きやその中に含まれる匂いが変われば季節の変化を感じ、その行為・気付きに気持ちの安らぎを憶える。空の高さや雲の形・棚引く様、身近な事象すべてに意味があり、その変化を少しでも感じて自分なりに楽しめば「自分なりに街を(徒歩圏内でも十分に)楽しむことが出来る」と考えている。ゆえに私は、「週末は必ず自分の住む街を出て、例えばSNS映えする流行の場所へ行きたい」「ショッピングセンターで(無駄に)お金を使いたい」「(いわゆる)週末を満喫したい」等とは基本思わない。無論、そのスタンスを否定する気も毛頭ない。新しい場所へ足を運ぶことは私達に色々な意味で刺激をくれるであろうし、お金をつかうことは「経済への貢献」を意味する、そして休みを満喫するのは当然の欲求であり、責任感を強く持ち、それぞれの立ち位置で頑張っている方々からすれば当然の権利でもある。主夫の私がとやかくいう方がおかしい。ただ「休みを休みらしく過ごさないと気が済まない」という考え方は現在の私にはない(何度も記すが、各々の考え方を否定する気はない。どの様に過ごそうとも各人の自由だ)しかしながら、時たま「休みは出掛けてなんぼ」みたいなタイプの方から、一方的にどの様に休みを過ごしたかを聞かされると「何もそこまでしなくても」と勝手に心の中で思ってしまったりはする、こちらから聞いていないので尚更かも知れないが。この様な内容の話は、平時であれば何の問題もない他愛もないやり取りであるが、コロナ禍でそのやり取りの様相が芳しくない方向へ変わってしまった様に感じる。あくまで私個人の意見であるが、この手の方々がコロナ禍における「移動制限(自粛)」により近所に溢れてしまった結果、生活のパターンや質を加速度的に息苦しいものにしてしまった様に思えてならない。無論、皆さん近隣に実際に住んでいる方々なので何の問題もないのであるが、問題は「その温度感(居たくて居る訳じゃない感がすごい、と表現すれば良いか)」である。私に関して言えば、もともと自分の住む範囲で穏やかな時間を過ごすことに喜びを感じ、その中で小さな楽しみを見付けることを心底楽しんでいる(た)が、出掛けたがりの方々は表情からして憮然としたもので「出掛けられないので仕方なく近所にいる顔(不満顔)」なのである。はっきり表現してしまうと「好きでもないのに、仕方なく公園や散歩へ出掛けるタイプの方々」は「元来その行動を好んで行っている側(例えば私)」からすれば「仕様が無く感」をとんでもないレベルで発しており、その鬱屈とした雰囲気を周囲へ伝播させている様に感じられてしまうのだ。お前だけの街でないであろう、との意見もあると思う。当然だ。しかし、平穏無事に過ごせていた雰囲気の街(コロナ禍前)に突然「この街に留まらなければならないのが不満」との顔をした人々が溢れたらどうであろう。おちおち季節の草花を楽しみことも難しくなる。昨年の私の話をすれば、普通に散歩に出掛けるのだけでも億劫になってしまった時期があった。いつもなら昼間の街に居ない様な人達が不満顔(恨みつらみすら感じさせるマイナス表情)でウロウロしているのだ。そう言った人達の一部は自分自身の不満を誰か・何かを叩くことで憂さを晴らそうとする。行き過ぎた形での「自粛警察」等は典型的な例だと思う。思うに、コロナ禍の厄災の一つに「人々の行き来が大幅に制限された結果、人々の不満を非常に接近したレベル・距離に留めてしまった点が上げられると思う。結果として、非常に息の詰まる雰囲気を各々が住む地域に沈殿させてしまい、精神的な健康被害として人々の思考回路や行動様式を悪い方向に変えてしまった様に思えてならない。街自体の雰囲気の正常な入替(人々の動きも雰囲気を循環させる役割を果たすはず)が難しくなり、閉塞感が充満、その状態が常態化してしまった。私個人は、その悪い沈殿物の様な雰囲気の影響を受け続けた結果、「住んでいる街が狭くなった様に思えてならない」との心境に陥ってしまった。
■在宅ワークにおける可能性とは – 仕事に臨む主体性が鍵か –
とは言え、困難な状況下においても、適切に物事に対応・適応して少しずつでも先に進まなければならない。以下、仕事におけるコロナ禍の影響を「人々の移動とその制限の観点」から考えてみたいと思う。「日々の生活」とのアプローチでは、また後日「モチベーション維持」の切り口で記してみたい。
コロナ禍は、私達の日常生活へ多くの変革をもたらした。例えば「通勤」、会社へ赴く必要がほぼ無くなった、出社回数として半減した、会議・ミーティングは全てウェブにて行う等との変革はもはや当り前レベルで落ち着いた感がある。
(余談であるが、同じ会社でも出社する必要性が薄い部門・方々と出社しなければならない部門・方々との間で公平性が保たれていないとの話も頻繁に聞く。誰も想定していなかった事態における対応は間違いなく難しいと前置きをした上で、個人的には「もっとも公平な尺度は金銭による解決」であり、出社しなければならない方々へは、例えば「出社手当」なる名目で支払いを行い、出社回数に対する公平性を担保するのが良いのではと考える。これはこれで「公平性に欠ける」と批判されそうであるが、出社している方々は「通勤する行為」に対して「労力や時間」を掛けている。会社側からは通勤に関しては「通勤手当(交通費)」として金銭が支給されるが、この労力・時間の観点は基本的に入っていない。皆が通勤することが当り前な状態では問題にならなかった点である。しかし今現在この点における公平性が崩れたとすれば、在宅勤務が多い方々と出社しなければならない・あるいはその回数が圧倒的に多い方々での間においては、「通勤に対する時間・労力」の観点で金銭化しなければ公平性に欠けるのではと考える次第だ。勿論「有給増」等の金銭以外の手当て付与の方法も有効であるが、公平性との観点からは金銭での評価・還元はもっとも効果的なのではなかろうかと個人的には考える)
会社に出掛けなくてもいい、そうなると人はどうなるか。これも個人的な推察であるが「出社をしなくて良くなった多くの方々」はかなり喜んだと思う。何せ、通勤電車に乗る必要もなくなり、朝の車の渋滞等からも解放されるのだ。会社に行かなければ、苦手な上司や態度のキツイ同僚、口の利き方を知らない後輩(私も生意気であったと、書きながら反省)と面と向かって話す機会も減り、対人関係等の悩みや困りごとも(おそらくは)一定期間は少なくなる。仕事の総量との観点からも、在宅ワークで以前より忙しくなったという方々は少ないのではないかと思う、むしろ時間に余裕が出来たのではなかろうか。(誤解を恐れずに記せば、一部の人はかなりヒマになったとも表現出来る。勿論、忙しい人はどの様な形態で働いても忙しいが)
さて、なかなか魅力的な在宅ワークとの響き。自身に置き換えて(主夫なので仮定の話であるが)、もし私が現役の会社員であれば在宅ワークを喜ぶだろうか。一定期間は間違いなく嬉しいはず。が、おそらく私なら長期間は出来ない。理由は、在宅ワークには「可能性という伸びしろをあまり感じない」からだ。以下では、在宅ワークを「可能性を感じるか」との切り口で考えてみたい。思い返せば、会社に通わなくてよいスタイルは会社員(以前の私も含めて)からすれば、いつの時代においても、一種の憧れの働き方であった。「ノマドワーカー」「フリーランス」、これらのキーワードで数多くの記事や書籍が発表・発売されている(た)ことも考えると、決して注目度が低いスタイルではないはずだ。そして、完全にフリーランスともならず会社員を続けながら出来るアプローチとして「二拠点生活」「サテライト・オフィス」等の活用・導入を巷で声高に持て囃された時期も記憶に新しい。どのアプローチも平凡な通勤スタイルから脱却し、次のレベル(仕事も生活も楽しむ、より良いバランス感覚を目指す、環境を変えて新しい生活スタイルを構築する等)に進む積極性を感じるこが出来る。言い換えれば、これらは「可能性をより感じる(より高まる)アプローチ」なのである。では、在宅ワークはどうであろうか。私なりの結論を先に申し上げると、「コロナ禍により、仕方なく政府・企業側が始めた(提示した)働き方」である。そこに「何事かを始めるに際しての、個人の積極性」はほぼ感じられない。例外を言えば、何でも頑張れる方々・状況に合わせて物事を上手に最適化出来る方々は、およそ多くの変革を乗り越える(これは当人の努力なしには成し得ない、個人のたゆまぬ努力である)こういった方々は在宅ワークの可能性を最大限に引き出せると思う(何事においても当事者意識を持ち、物事に対して真摯に向き合える方々が生み出す可能性・相乗効果は無限大だ)
他方で、会社の看板にぶら下がる癖が付いている方々からすれば、在宅ワークは「さぼり癖を発揮出来るベストな働き方」になってしまう(既になっている)のではなかろうか。大して仕事もしていない人(やる気が無いと表現した方が妥当か)へ対してはそもそも連絡や仕事の依頼も少ない。とすれば、出来るだけ自宅でダラダラして連絡の返信も出来るだけ遅くし、そしてお給料だけを貰い続けるとの構図が本当に安易に出来上がる。大して仕事もせず、お金は継続的に入って来るとの状況を天国に感じるかも知れないが、おそらくこの状況は長くは続かないであろう。企業側からすれば、いつまでも仕事をしない人達へ給料を払い続けたくない、そしてその余裕もない。これは偽らざる企業側の本音だと思う。そもそも人を雇うこと自体に大変なコストが掛かっている。残念なことにコロナはウィルスである為、変異を繰り返しその存在は半永久的に存在し続ける。とすれば、会社側とて終わりの見えないウィルス対策にと仕様が無く用意した楽な働き方をいつまでも「仕方ないよね」と認め続けることは難しいであろう。早い話が「(在宅ワークで)結果を出せない人はいらない」との方向が加速するのではなかろうか。実際、会社に〇〇さんが居なくても特段何も困らなかったのだから、との論法である。コロナ禍以前の様に「取りあえず会社に行けば、仕事しています・忙しいですとの言い分が成立」する状況では最早ないのである。在宅ワークは通勤時間の短縮という大きな時間削減効果を生んでいる。ゆえに、「時間がある、のに仕事をしない・出来ない」はまずい事態なのだ。導入され普及した経緯はどうであれ、「在宅ワークはリストラをより加速させる施策(結果的にでも)」であると私は本気で思っている。在宅ワークという(頑張ることを嫌う一部の人達にとっての)甘美な響きは、「物事の猶予期間を食い潰して得られる一時的な利益(楽)という側面を併せ持つ」ことを忘れてはならない。さらに、ダメ押しできついことを記すと「直接会わない=知らず知らずの内に情の低下を招いている(お互いに)」この点も含んでおいた方が良いように思われる。以前よりも、泣き落とし的な話が通用する余地がないことも肝に銘じておこう。
■可能性を広げようとする姿勢 – 移動しない(が少ない)=停滞を招きやすいとの点を意識 –
在宅ワークの悪い点ばかりクローズアップしてしまった気がするが、良い点は何であろう。対人関係等の負担の軽減も大きいと思うが、以下では通勤しないことで得られる「時間」に着目したい。ご自身の通勤時間を考えて頂きたい、どの位であろう。そして、もし在宅ワークをされている方ならば「一日で往復どの位の時間を節約出来ているのか」「一週間」「一ヶ月」「一年」ではと、単純計算してみてほしい。一年位まで期間を広げて考えてみると、かなりまとまった時間になると思う。この時間を活用すれば色々なことが出来るはずだ。では、在宅ワークが私達の身近な言葉になって一年近く、その空いた時間で何をしたか・達成したかを考えてみてほしい。中には意欲的に物事に取り組み、自宅でする仕事もプライベートも絶好調との方々もいるかも知れない、努力を怠らず手に入れた成果・生活、素晴らしいことである。しかしながら、「時間は出来たけど、思った程には何もしていない」と言う方々も多いのではなかろうか。むしろ「コロナ禍以前と比べて、能率やモチベーションの熱量は下がったかも知れない」との方々も多いのではなかろうか、とも感じる。ここからは私の感覚的な話であり、エビデンスも何もない。ただの一個人の意見として聞いて頂ければ有難い。思うに人間は「ある程度の枠組み(生活様式・物事の枠組み・考え方や進め方・帰属する組織・地域・従うべき規範等)」があった方が結果的に物事の能率や気持ちの維持がし易い生き物である様に思える。その枠組みが強すぎても無論良くないが、突然にそれまで当り前であった枠組みが大きく変更されると人間は戸惑うであろう。しかも「楽な方向への転換」であったりすると、人の能動さやモチベーションにおいては、中長期的な視野で考えると悪い方向へ影響が出てしまう様に思えてならない。厄介なのは、楽への転換は基本的に歓迎すべきものであるので(当初は)誰もが喜ぶのだが、一定期間が過ぎると、今度はその状態に慣れてしまい、その状態を続けるとまずい事態に陥ることが予見出来ても(物事を見通す力が弱まり、出来ないことも多いが)少しずつにでも改善しようと動か(け)ない点にある。「ゆでガエル」とも言い表せそうか。時間を手に入れて、停滞する。言葉にすると意味が分からないかも知れないが、おそらく同様のことを日常において肌身で感じる方も多いと思う。移動しないことが悪い訳でも何でもないのだが(むしろ時間を節約出来ることは歓迎すべきこと)、それは同時に「あなたの能動性(その先にある可能性)」を同時に削いでいる恐れがあることを念頭に置かなければならない。詰まる所、意識は常に移動しておいた方が良いのかも知れない。身体においても軽度のジョギングや散歩等、移動を伴うものを適度に出来ればベストだと思う。例え話であるが、張り合いのある毎日を送る人が休日をゆっくりするのは必要だし、健康の為にもそうあってほしい。しかしながら、他方で「忙しい・張り合いのあるとの感覚」をながらく忘れてしまった人にとっての「休日」は、本当に忙しい人が休日に感じる「充足度・満足度」に遠く及ばないのは比較するまでもないであろう。
私が念頭に置くべきと考える点をまとめると「在宅ワークは人々の移動を結果的に小さなもの(実際の距離の他、人とのやりとりにおける心の動き等も含まれる)にしてしまい、一見すると楽ではあるが(実際にそうかも知れないが)それは自分自身の能動さや今後得られる可能性と引き換えにしているリスクを併せ持つ」との点である。能動さと引き換えに、楽と言う名の「停滞」を招いている恐れがある。私達は常に「停滞しているかも知れない」との意識を持ち、身体的にも気持ちの上においても「在宅ワークがより自分の可能性を広げる働き方」であることを自身の行為を通して立証して行く(し続ける)必要性がある。時代は常に待ったなしで様々な方向へ進んでいる、一時期は良い意味で流行ったものが、今後も「良い意味」での方向性を維持してくれる(される)とは考えにくい。在宅ワークという、ひと昔前であれば望んでも手に入らない働き方を今は「そうしなければならない」との側面から求められている現状を鑑みても、物事の状況は数年で大きく変わることが分かる。時にそれは思いもよらない方向へ動くこともある。人によって捉え方は様々であろうが、自分自身の可能性・伸びしろの余地を小さくしないよう、むしろよりその部分を伸ばして行けるように「在宅ワークという現代の新しい働き方」に向き合い・考え・身に落とし込んで行く必要があると考える次第だ。